ディストピア時代におけるミュージック・コンクレート





ディストピアは今やインターネット発の音楽シーンには
必ずと言っていいほど顔を出す概念になった。

ヴェイパーウェイヴにしろ、昨今アダム・ハーパーがDummymagで提唱したディストロイドにしろ、
それが「日本人のサラリーマン」的なものか「マッチョイズム」か、という違いはあるが、
どちらも現在の社会をシニカルに描き出すものであり、社会の行き詰まりを示すものである。
(後者に至っては、「人の気配すら無くなっている」)

それと同時に浮かび上がってきたのが、ミュージック・コンクレートという手法である。
OPNは新作『R plus Seven』で具体音を作中に取り入れる、
ミュージック・コンクレートの手法を利用し、作品を作り上げた。
また、『Music for Private Ensemble』でのSean McCann、
『NYC, Hell 3:00 AM』でのJames Ferraro、
ここ日本でも『The Space Theory Of The Dreams And Phantasms In A Small Box』を発表した
Rhucleなどミュージック・コンクレートを使用する作家は確実にその数を増やしている。

では、ミュージック・コンクレートとは何なのか。
武満徹は『芸術新潮』1958年2月号において、このような発言をしている。
『僕がミュージック・コンクレートなんかでいろんな現実音を使って音楽を書いているというのは、音楽に限らず芸術というのは非常に細分化されちゃって、音楽の場合では十二音音楽や電子音楽というところまで来たわけですけれど、僕の考えるところでは、そういうものは、もうひとつの飽和点に達して行き詰まりの状態にあるわけです。ですから僕が現実音を使うということは、昔の原始時代の人間と宇宙の関係、宇宙がいつ襲いかかってくるか分からないというような状態にある、そういう未分化の状態に甦らなきゃいけないだろうというところから出発しているわけです。』

これがミュージック・コンクレートを端的に言い表した発言だろう。
ラジオ技師からミュージック・コンクレートを始めたシェフェールにせよ、
その弟子のピエール・アンリにせよ、所謂音楽として規定されているものを再度見直そうとするものであった。
そして、これはヴェイパーウェイヴの手法と通ずるものでもある。

周知の通り、ヴェイパーウェイヴは
所謂『ミューザック』的な音楽の可能性を拡げるような運動であることは今更言うまでもない。
そもそも『ミューザック』とは生産性や仕事の能率を上げるためにかかる無味乾燥としたBGMで、
それを改めて見直し、それに批評性を与えることで、
資本主義社会や管理社会をシニカルに描き出し、
一方で『ミューザック』的なものに音楽的な可能性を与えるという、
二重の運動がこの『ミューザック』的なものに対する見直しには内包されている。
つまり、ヴェイパーウェイヴは非音楽から音楽をどれだけ見いだせるか、という試みだったと言えるだろう。

しかし、ヴェイパーウェイヴの音はミュージック・コンクレートの技法に則れば、『抽象音』である。
「スーパーチャンスが溢れてる」という言葉の裏に資本主義のおかしみがあったとしても、
それはあくまでその含意を読み取っているから、機能する音であり、「直接」的に伝わる音ではない。




一方、『NYC, Hell 3:00 AM』に収められたネズミの鳴き声は都市の暗部を直接的に抉り出した『音』である。
また、直接的であるが故に、彼らには表現者としての逃げ場がない。
逃げ場がないからこそ、OPNはポップなメロディを紡ぎだし、
『Still Life』のような露悪的な曲や具体音をより一層浮かび上がらせようとする。

ヴェイパーウェイヴには可能性があった。
だからこそ、OPNやフェラーロはその可能性を引き継ぎ、繋げるために自らの手法を更新した。
それこそ、冷酷なポップソングとミュージック・コンクレートの真価であり、
全てが未分化の状態から音楽を見直すことだと私は思うのだ。

シェフェールは晩年のインタビューでこう語っている。

『私は音楽にたどり着けなかった――私が音楽と呼ぶものにはだ。
 (中略)抜け道はない。抜け道は私たちの後ろにあるんだ。』

現在におけるミュージック・コンクレートはこういった限界を知りながら、
それでも僅かな漸進を試みようとするスリリングな『音楽』だ。